とあるきっかけで手紙やメールの著作物性について調べていた。
発端は今年の3月21日に出た東京地裁のこの判決(平成24年(ワ)16391)。プロバイダ責任制限法に基づいた発信者情報開示の事案なのだが、その要件とされている「明らかな権利侵害を受けていること」が著作権の侵害がなされていることとされ、その著作権侵害の中身が、メールのウェブサイトへの転載であったため、そもそもそのメールは著作物だったのかどうかが判断されたもの。
WestLawで検索した限りでは(そして特許情報はともかく判例検索にはとても精通しているとはいえないこともあって)、これまで電子メールの著作物性について判断されたケースは見当たらなかった。そこで、同類といえるだろう手紙の著作物性について見てみた、というわけである。
手紙が著作物かどうかを判断した裁判例は割と近年までなかったようで、三島由紀夫手紙事件(平成12年5月23日東京高裁、一審は平成11年10月18日東京地裁)が最初の裁判例になるようだ。というのも、本件の控訴審判決を見ると、控訴人の主張の要点の中に、以下のようなくだりがあって、これまで司法判断がなされてこなかったということが縷縷語られている。
これに対して東京高裁は、以下のように述べて上記主張を一蹴している。手紙の著作物性については、法律に明文がなく、それを否定した裁判例(高松高等裁判所平成八年四月二六日判例タイムズ九二六号二〇八頁)はあるものの、肯定した裁判例はない。学説も、手紙の著作物性について触れるものはほとんどなく、例外的にこれに触れた学説も、手紙をカタログ類、広告、劇場プロ、アルバム等と並記して著作物性を生じるボーダーライン・ケースとし、「もちろん、実際には、個々の場合について、著作物性を備えているかを判定することが必要で、一般論としてここにあげたカタログその他がすべて著作物だといえるわけではない」(中川善之助・阿部浩二著「著作権」)とし、半田正夫「概説著作権法」がやや詳細にこれを論じている程度である。
本件書籍に本件各手紙が公表された当時、素人はもとより専門家でも、手紙の著作物性について確かな見解(司法判断の予測)を持することは不可能であった。このような状況の下においては、手紙の著作物性は誰にも知られていないに等しく、国民の依拠すべき法は、事実上存在しなかったのである。
このように、手紙の著作物性については、法律の明文も判例も全くなく、学説も寥々たるうえ区々たる有様で、それだけを論じた単行の論文などなく、せいぜい教科書の中で結論だけが一、二行述べられているにすぎず、有力な多数説のごときものは形成されていなかった。このような状況の下において、日本で初めて公権的判断を下した裁判所が、自らの見解を理由として、それに反した当事者の行動に過失責任を問うのは酷である。控訴人らには、故意はもちろん過失もない。
で、肝心の手紙の著作物性については、一審判決において、著作権法は、著作物を「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」と定義し、特に「手紙」を除外していないから、右の定義に該当する限り、手紙であっても、著作物であることは明らかである。この点について、手紙の著作物性は誰にも知られていなかったとか、国民の依拠すべき法が事実上存在しなかったとか、ということはできない。
とされており、控訴審においても、本件各手紙には、単に時候の挨拶、返事、謝礼、依頼、指示などの事務的な内容のみが記載されているのではなく、三島由紀夫の自己の作品に対する感慨、抱負、被告福島の作品に対する感想、意見、折々の心情、人生観、世界観等が、文芸作品とは異なり、飾らない言葉を用いて述べられている。本件各手紙は、いずれも、三島由紀夫の思想又は感情を、個性的に表現したものであることは明らかである。以上のとおり、本件各手紙には著作物性がある。
とされている。単なる時候のあいさつ等の日常の通信文の範囲にとどまるものではなく、三島由紀夫の思想又は感情を創作的に表現した文章であることを認識することは、通常人にとって容易であることが明らかである。
この裁判例によって、「手紙一般が著作物ではない」という極論はなくなったのだろうけど、なにしろモノが作家の手紙ではそりゃ創作性も高くて著作物にもなるでしょうよ、という感もあり、正直なところ一般人の手紙の著作物性の判断にそれほど役に立つとも思えないところ。
一般の私信(手紙)の著作物性を判断した事案としては、平成8年4月26日の高松高裁判決(判例タイムズ926号207頁)がある。これは、少林寺拳法連盟内の内部紛争?絡みの事件のようだが、問題となった私信について(手紙そのものが掲載されていないのでどのようなモノなのかが明確には分からないけれども)、
として、著作物性を否定している。三島由紀夫手紙事件とこの高松高裁判決を並べて見ると、『うーん、普通の人の手紙は著作物といえるほどのものじゃないの??』となりそうな。本件手紙は(中略)被控訴人自身の考えを述べたものであって、その思想または感情を表明したものといえるが、著作権法が保護の対象とする著作物の意義を「思想又は感情を創作的に表現したものであって」と規定しているところからみて、著作物というためにはその表現自体に何らかの著作者の独自の個性が表れていなくてはならないと解すべきであるところ、本件手紙の表現形態からみて、このような意味の独自性があるものとして法的保護に値する「創作的に表現したもの」と解することはできない。
ほかにも手紙の著作物性判断はないのか?といくつか見てみたら、刑事被告人文手紙公開事件(平成22年3月19日名古屋高裁判決平21(ネ)688号。一審は、平成21年 7月 1日 名古屋地裁判決 平20(ワ)3019号)というのがあった。これは、死刑判決を受けて上告中の刑事被告人である控訴人が、出版社である被控訴人に対し、同人の発行する週刊誌に掲載された記事において、控訴人の文通相手に宛てた手紙を公表されるなどして控訴人の著作権・著作者人格権・宗教的人格権・名誉感情・プライバシーを侵害された旨主張して、損害賠償を求めた事案。
この事件における手紙について、
として著作物性を認め、単に時候の挨拶、返事、謝礼、依頼、指示などの事務的な内容が記載されているのではなく、本件刑事事件で無期懲役刑の第一審判決を受け、その控訴審で審理中の控訴人が、文通相手であるJに対し、刑事裁判に対する率直な感情や心情、控訴人自身の宗教観や宗教的心情等を個性的に表現していると認められ、著作物にあたると解される
としつつも、被控訴人が、控訴人に無断で、本件各引用部分を本件週刊誌に掲載して公表・頒布しているから、被控訴人の同行為は、控訴人の著作権(著作権法二一条の複製権)及び著作者人格権(同法一八条の公表権)に抵触する行為である。
本件の引用については、報道の目的上正当な範囲の利用といえるので時事の事件の報道のための利用は、報道の目的上正当な範囲内において、複製し、及び当該事件の報道に伴って利用することができ(同法四一条)、著作権を違法に侵害することにはならないし、このような要件を充たす場合には著作者人格権を違法に侵害する場合にも当たらない(四一条の趣旨が準用されるか、違法性阻却事由になる。)と解され
と結論づけている。これも、事案としてはかなり極端なので、正面から参考になるかと言われるとううむ、という感じである。まあ、創作性の判断については、かなり心情が吐露されている手紙であることはうかがえるので、個性的であることは間違いなさそうではあるが。被控訴人が本件週刊誌に本件記事を掲載して公表・頒布した行為は、控訴人の著作権・著作者人格権を侵害する不法行為には当たらない。
というところで、冒頭の東京地裁判決。これは、宗教団体の内部メールという性質もあってか、ちょっとぶっとんだ感じのメールだとも言え、判決文の中でも、
とされている。確かに表現は、個性的であることは否定しがたいが、メールの内容は、三島由紀夫判決に言う、『単に時候の挨拶、返事、謝礼、依頼、指示などの事務的な内容』ではないかと思われるのだが、、、。「「人形形代」を書きまくりましょう!」,「やっと「人形ムード」になった方も多いのではないでしょうか?」,「B先生が「伊勢神業」のお取次をしてくださるまでの貴重なこの時間は,私たちに「人形形代」をもっともっと書かせて頂くための時間ではないでしょうか?」などの個性的な表現を含み,十数文からなる文章であって,誰が作成しても同様の表現になるものとはいえないから,本件メールは,言語の著作物に該当すると認められる。
この判決を基準に考えると、電子メールの相当割合が『個性的』で『誰が作成しても同様の表現になるものとはいえない』から著作物となりそうな気もするが、反面、発信者情報の開示請求であるという事案特有の事情により判断が緩くなっている側面もあるのではとも思い、今後の同種の事案の判断を待ちたいところ。
メールは気軽に承諾なく転送したりすることが頻繁に行われるし、その延長上で軽く考えてネット上に流出させてしまったりということも少なくない。特に、告発系の記事では、要約ではなくそのまま載せることに意義があると考えるケースも多そうで、この判決のような事案が増えてもおかしくないように思われる。実務的には、要注意というところだろうか。