知財渉外にて

2008年3月~2014年9月までの間、知財渉外ネタを中心に書いてきました。

職務経歴書その4の裏側 ワーキングマザーとして

2001年晩秋に帰国したとき、息子1号は5歳、2号は1歳だった。

カナダに滞在中、英仏語のクラスに通ったり、McGill Univ.のLawに通ったりしていたので、息子1号が10ヶ月の頃から保育ママに預けはじめ、Daycare(保育所)の空きを待って入園させ、2号も兄弟優先で7ヶ月から預けてはいたが、フルタイムで働いているわけではなかったので、いざ帰国してキャリア再開に当たっては結構緊張して入念に準備したと思う。

日本の保育事情から始まって、地元の保育情報まで質問して親身に回答をもらったのはムギ畑である。カナダにいた頃にふとしたきっかけで存在を知り、当時はまだSNSとかがなかった時代だったから、ネットの向こうの交流にかなり助けられたと思う。帰国したときも早速オフ会に参加したり、子どもたちが保育園・小学校時代には生活ペースの確立のための情報を中心にずいぶんお世話になった。今では私の中では役目を終えた感じがあり、ほとんどアクセスしていないけれど、子どもたちが小さい間、ワーキングマザーとしてやってこれたのはこのサイトの存在がとても大きかった。

さて、帰国後の勤務先は先に書いたように既に元同僚開設の特許事務所ということで決まっている。場所的には夫の勤務先(要は私の初職と同じなのだが)と目と鼻の先。ということは、一にも二にも職住近接だろうということで、近隣でかついわゆる『環境がよい』とされている地区を中心に住まいを探した。幸い、この地区は古くからの住宅地で新興地よりは保育園の空きもありそうだった。結果、職場から2Km強のところに決め、通えそうな範囲の保育園を数カ所ピックアップ。ムギ畑の力を借りて、自分の予想されるワークスタイルと見合わせて、家から最も近い公立園は敢えて避けて学区内の私立認可園を第一志望に。12月ということで、4歳児クラスの息子1号はともかく0歳児クラスになる息子2号はさすがに空きがなかったが、幸い少し離れたところに分園があり、そちらなら受け入れ可能と言うことだった。

学区内とはいえ、小学校を挟んで反対側に位置するため、歩いてすぐというわけにはいかない。そして、2箇所送迎が確定してしまったので、悪天候時も考えると、車を使いたいところ。そこで、勤務先の所長に交渉して交通費代わりに事務所裏手にあった駐車場を借りてもらうことにした。これで朝は家族揃って家を出て保育園2箇所に送り届け、夫と二人でそのまま車で出勤、お迎えはどちらかが車を使って行く。途中でなにかあって呼び出しがあれば対応できる方が車を使って対応する、という体制になった。

翌4月に年度が変わってからは『兄弟同じ方が良いでしょう』と保育所内で調整してもらい、息子2号も本園の1歳児クラスに移ったので2箇所送迎は4ヶ月で終了したけれど(たかが4ヶ月されど4ヶ月で毎日のことだからやっぱり2箇所は近くても大変だった)、そのまま私の勤務先が移転するまで車通勤と送迎は継続した。

この保育園、朝は7時から夜は8時まで開園していて、朝の7〜8時と夕方6時以降は合同保育になっていた(預ける人数が少ないので、所属クラスを離れて1〜2クラスに固めて保育する)。勤務先の特許事務所の定時は9時〜6時。毎日めいっぱい預ければ賄えてしまうなんともありがたい時間設定だったけれど、夕飯が供されるわけではないので、8時に迎えに行って帰って夕食にしていたら寝る頃には10時を回ってしまう。保育園児がそれでは保たないので、通常は6時には迎えに行けるようにして、9時就寝を死守することに心がけていた。弁理士は裁量労働職種なので、雇用契約は最初から裁量労働にしており、そういう点での融通は問題なかったし、仕事の性質上グループワークがあるわけでもないので、生活ペースを確立していかにそのなかで成果を出すのかだけの問題だった。

一方で、子育て中と割り切って、子どもへの対応を優先し、充てられる時間だけ仕事をするという選択肢もあったのだろうが、なにしろ5年を超えるカナダ滞在で仕事がまともにできない期間が長くなりすぎてぶち切れて帰国したようなものだったので、端からそういう選択は眼中になかった。ムギ畑で両立のシステムを確立してしっかり働いている先達を見ていたせいもあるかもしれない。

ということで、特に子どもを言い訳にして仕事を手控えることはしない、当然ながら納期を守るのを最優先に、品質を上げることを目指して生活と仕事のペースを確立することに必死になった。また、続けていくうちに、それなりの成果を出そうと思ったら、ある程度の量をこなさないと質がついてこないことを痛感したので、仕事量を落とすという選択肢は自分の中でなくなった(細々と続けるだけではそこに割いたものに見合うだけの見返りが実は得られないと言うこと。閾値が存在すると思う)。

で、仕事を守りつつ子どもの健全な成長を確保するという欲張りなポリシーを掲げて日々の生活を送っていたわけだが、それこそ先達の経験をもとに、不意打ちを食らわない、予想外の事態に遭遇して立ち往生をしないための体制作りに気を遣った。我が家の息子たちは幸いかなり丈夫なたちで、あまり熱を出したりすることもなかったが、怪我はあったし(息子2号なんて3歳児のくせにスキーで骨折してたし)、インフルエンザにかかることもあり、突然明日休む必要が出るということは想定内にしておかなくてはならない。

こうした有事の対応は、裁量労働で自由のききやすい自分自身を当てることを第一にしたので、常に明日出勤しなくても良いように持ち帰り仕事の用意は万全にしていた。そうはいってもその当日がはずせない発明者面談だったりすることだってあるからそういうときには夫と調整して午前午後でバトンタッチもよくやった。夫実家は遠方だったが私自身の実家は通える距離にあったので、どうしようもないときは頼ったこともある。(残念ながら両親も忙しいのと老齢のため病児はともかく元気な保育園児を預けるのはだんだん辛くなってきていたが。)

出張時や仕事が立て込んできたときの対応のため、ファミリーサポートも登録して一時は定期的に保育園のお迎えと夕食をお願いしていた。週一回でもこれができると融通はかなりききやすくなる。引き替えに、就寝時間は遅くなるので、次の日への影響は避けられないから悩ましいところだった。特に息子1号は赤子の頃からよく寝るタイプで睡眠確保が最優先(今高校生になっても人生の幸せの一番は寝ることだと断言して憚らない)なので、やはり9時就寝はこだわりたいのだった。

共働き子育てでは他人の手をいかにうまく借りるかが決め手の一つだと思うので、色々試行していたわけだけれども、子どもたちに向き合う姿勢というか、子育てで何を重視するのかは親が担わなくてはいけないし、他の人と関わる時間が日常的に相当量になると軸をぶれずにキープするのは時として難しい。ある程度の時間を過ごさないと無理とまでは言わないが、ある程度の時間を一緒に過ごした方が楽にそこを担保することができるのは確かだと思う。

私は、子どもたちには想像力を持って、自分でものを考える人に育って欲しいと思っていて、そのために、こうすべき、とか、こうして欲しい、という場合には、必ず理由を説明してきた。何でも良いから従え、とか、そういうものなんだ、とかいう納得性の薄いことはやったことがない。が、世の中そういう育ちをしてきて子どもにそういう態度を取って疑問を抱かない方は大変多いので、同じように息子たちに接すると納得しないので梃子でも動かないという反応にあって困るという事態になったりするわけ。ここは妥協できないので、より過ごす時間の量を確保するしかないな〜という結論になったことである。

このような子育てポリシーの結果育った息子たちは、今では自分で考えてものを言う一方、世の中そういう人ばかりではないと言うことも理解してきていて、その対処法についても自分で考えつつあるというところだろうか。

語り出すと長くなって止まらないが、主題からはずれそうになってきているので、とりあえずここまでで。